麗~after story~ ⑨

 

×××××

 

店長から講師を打診された2週間後、ハジンは本社に来ていた。

 

会議室の前の廊下に置かれている椅子に座り、講義で話すことを忘れないように、頭の中で何度も反芻する。

 

人前で話すことが得意ではない上に、講師なんてものは、もちろん初めてのことなので緊張しかない。

ハジンは、不安と緊張で落ち着かなかった。

 

すると、隣の椅子に誰かが座る気配がした。

ハジンが顔を横に向けると、そこには、いつものように少し固い表情をしたソヌが座っていた。

「社長」

ハジンは軽く会釈したが、ソヌは何も言わず、持っていたコーヒーショップのカップをゆっくりとハジンの手の中におさめた。

 

ハジンは戸惑いソヌを見るが、やはり彼は何も言わず、自身が持っている飲み物を口にしている。

それを見て、ハジンは素直に受けとることにした。

 

「ありがとうございます」

お礼をしてカップを口に運ぶと、暖かいコーヒーがカラカラになった喉を潤した。

 

ハジンはホッと一息つき、

「どうして、ここに?」

浮かんできた素朴な疑問を投げかけた。

 

「私が社長になってから初めての新入社員研修だからな。どんなものなのか見ておく必要があるだろ」

ソヌはそう言ってからようやくハジンの顔を見て、ふっと笑った。

「そんな固い顔をしてたら、新入社員たちの方が緊張してしまうだろ」

 

そんなに怖い顔をしていただろうか。

 

ハジンは、慌てて顔を触ってほぐしてみる。

そんなハジンを見て、ソヌはさらに笑った。

 

先日は、難しい顔ばかりしていたソヌが久しぶりに笑ったところを見て、ハジンは少し安堵した。

 

「緊張をほぐす呪文、知ってるか?」

ソヌの突然の問いに、ハジンは首を傾げ横に振った。

「呪文…?なんですか?」

 

ソヌは、ハジンの問いには答えず、無言で右手を出した。

手を出せということか、と、ハジンがおずおずと左手を差し出すと、手首を掴まれ、ぐっとソヌの元へ引き寄せられる。

 

髪の毛がソヌの頬に触れ、近づくその距離に、ハジンの心臓は早鐘を打った。

だが、ソヌは気にする様子もなく、胸元のポケットにさしてあったボールペンを取り出し、ハジンの掌にペンを走らせる。

 

ハジンは、ソヌの顔を見つめた。

 

こんなに近くで、まじまじと見たのは初めてかもしれない。

 

あの人を思い出して苦しくなるその顔を、でも綺麗なその顔を、いつまでも見ていたいと思った。

 

その瞬間――

「できたぞ」

ソヌが顔を上げ、ハジンと視線が絡み合う。

ハジンは慌てて掌に視線を落とした。

 

そこに書かれていたのは、文字ではなかった。

 

ハジンは、一瞬驚いたが、描かれたそれをみて思わず笑ってしまった。

「ふふっ」

ハジンの反応に、ソヌは満足そうに目を細める。

 

「これが呪文?絵ですけど」

そう言いながら、ハジンは左の掌をソヌに向ける。

 

そこには、大きく"☺️"が描かれ、そして、その下には"힘내!"(ヒムネ)[頑張れ]と書かれていた。

파이팅(ファイティン)と書かないところが、ソヌっぽいと思ってしまう。

 

「細かいことを気にするな。緊張はほぐれただろう?」

「はい。こんな子供っぽいことをするとは思いませんでしたけど」

「気負うことはない。自分がしてきたこと、店頭に立って感じていることをそのまま伝えればいいだけだ」

「そうですね。ありがとうございます」

 

ソヌの言葉に、ハジンは肩の力がすっと抜けたのを感じた。

 

ソヌは、チラッと腕時計に目をやり、そろそろ行かないと、と腰をあげた。

 

「ありがとうございました」

ハジンも立ち上がり、頭を下げる。

 

ソヌは軽く頷いてから、近くで待っていた秘書と一緒に歩いて行った。

 

ハジンは、その後ろ姿を見ながら、ふと、持っているカップに視線を落とした。

ソヌとカップを交互に見ながら、今更だがソヌが飲み物を2つ持っていたことに疑問を抱く。

 

わざわざ買ってきてくれたのだろうか?

 

そう思い、その理由を考えると、邪(よこしま)な考えに至りそうで、まさかそんなわけない、とハジンは慌てて首を横に振った。

 

でも、もしかしたら――。

 

1%でもいい。

0.1%だっていい。

自分のことを考えてくれていたのだとしたら――。

 

ハジンは、いても立ってもいられず、ソヌに駆けよった。

 

「あのっ、社長」

 

ソヌが、足を止め振り向く。

ソヌと視線が合ってから、ハジンは、何も考えていない自分に気づいた。衝動的に声をかけてしまったが、何か言いたいことがあって呼び止めたわけではない。

 

「コ・ハジンさん?」

 

何も言わないハジンをソヌが不思議そうに見つめる。

 

 

「――あの、……今夜、空いてますか?」

 

 

×××××

 

 

文中の「힘내(ヒムネ)」について

「힘(ヒム)」は、「力」や「元気」という意味なので、文中の「힘내(ヒムネ)」は直訳すると「力を出して!」ですが、ニュアンスは日本語の「頑張って」に近いので文中ではそう訳しました。

「화이팅(ファイティン)」は英語の「Fighting」を韓国語読みしたもので、韓国ドラマにもよく出てくる言葉なので、知っている方も多いと思います。

 

意味合いは似ていますが、화이팅(ファイティン)よりも힘내(ヒムネ)の方が言い方が丁寧な感じがしたので、ソヌの性格的には힘내(ヒムネ)かなぁ、と思い、作中ではそちらを使用しました。

 

 

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