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店長から講師を打診された2週間後、ハジンは本社に来ていた。
会議室の前の廊下に置かれている椅子に座り、講義で話すことを忘れないように、頭の中で何度も反芻する。
人前で話すことが得意ではない上に、講師なんてものは、もちろん初めてのことなので緊張しかない。
ハジンは、不安と緊張で落ち着かなかった。
すると、隣の椅子に誰かが座る気配がした。
ハジンが顔を横に向けると、そこには、いつものように少し固い表情をしたソヌが座っていた。
「社長」
ハジンは軽く会釈したが、ソヌは何も言わず、持っていたコーヒーショップのカップをゆっくりとハジンの手の中におさめた。
ハジンは戸惑いソヌを見るが、やはり彼は何も言わず、自身が持っている飲み物を口にしている。
それを見て、ハジンは素直に受けとることにした。
「ありがとうございます」
お礼をしてカップを口に運ぶと、暖かいコーヒーがカラカラになった喉を潤した。
ハジンはホッと一息つき、
「どうして、ここに?」
浮かんできた素朴な疑問を投げかけた。
「私が社長になってから初めての新入社員研修だからな。どんなものなのか見ておく必要があるだろ」
ソヌはそう言ってからようやくハジンの顔を見て、ふっと笑った。
「そんな固い顔をしてたら、新入社員たちの方が緊張してしまうだろ」
そんなに怖い顔をしていただろうか。
ハジンは、慌てて顔を触ってほぐしてみる。
そんなハジンを見て、ソヌはさらに笑った。
先日は、難しい顔ばかりしていたソヌが久しぶりに笑ったところを見て、ハジンは少し安堵した。
「緊張をほぐす呪文、知ってるか?」
ソヌの突然の問いに、ハジンは首を傾げ横に振った。
「呪文…?なんですか?」
ソヌは、ハジンの問いには答えず、無言で右手を出した。
手を出せということか、と、ハジンがおずおずと左手を差し出すと、手首を掴まれ、ぐっとソヌの元へ引き寄せられる。
髪の毛がソヌの頬に触れ、近づくその距離に、ハジンの心臓は早鐘を打った。
だが、ソヌは気にする様子もなく、胸元のポケットにさしてあったボールペンを取り出し、ハジンの掌にペンを走らせる。
ハジンは、ソヌの顔を見つめた。
こんなに近くで、まじまじと見たのは初めてかもしれない。
あの人を思い出して苦しくなるその顔を、でも綺麗なその顔を、いつまでも見ていたいと思った。
その瞬間――
「できたぞ」
ソヌが顔を上げ、ハジンと視線が絡み合う。
ハジンは慌てて掌に視線を落とした。
そこに書かれていたのは、文字ではなかった。
ハジンは、一瞬驚いたが、描かれたそれをみて思わず笑ってしまった。
「ふふっ」
ハジンの反応に、ソヌは満足そうに目を細める。
「これが呪文?絵ですけど」
そう言いながら、ハジンは左の掌をソヌに向ける。
そこには、大きく"☺️"が描かれ、そして、その下には"힘내!"(ヒムネ)[頑張れ]と書かれていた。
파이팅(ファイティン)と書かないところが、ソヌっぽいと思ってしまう。
「細かいことを気にするな。緊張はほぐれただろう?」
「はい。こんな子供っぽいことをするとは思いませんでしたけど」
「気負うことはない。自分がしてきたこと、店頭に立って感じていることをそのまま伝えればいいだけだ」
「そうですね。ありがとうございます」
ソヌの言葉に、ハジンは肩の力がすっと抜けたのを感じた。
ソヌは、チラッと腕時計に目をやり、そろそろ行かないと、と腰をあげた。
「ありがとうございました」
ハジンも立ち上がり、頭を下げる。
ソヌは軽く頷いてから、近くで待っていた秘書と一緒に歩いて行った。
ハジンは、その後ろ姿を見ながら、ふと、持っているカップに視線を落とした。
ソヌとカップを交互に見ながら、今更だがソヌが飲み物を2つ持っていたことに疑問を抱く。
わざわざ買ってきてくれたのだろうか?
そう思い、その理由を考えると、邪(よこしま)な考えに至りそうで、まさかそんなわけない、とハジンは慌てて首を横に振った。
でも、もしかしたら――。
1%でもいい。
0.1%だっていい。
自分のことを考えてくれていたのだとしたら――。
ハジンは、いても立ってもいられず、ソヌに駆けよった。
「あのっ、社長」
ソヌが、足を止め振り向く。
ソヌと視線が合ってから、ハジンは、何も考えていない自分に気づいた。衝動的に声をかけてしまったが、何か言いたいことがあって呼び止めたわけではない。
「コ・ハジンさん?」
何も言わないハジンをソヌが不思議そうに見つめる。
「――あの、……今夜、空いてますか?」
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※文中の「힘내(ヒムネ)」について
「힘(ヒム)」は、「力」や「元気」という意味なので、文中の「힘내(ヒムネ)」は直訳すると「力を出して!」ですが、ニュアンスは日本語の「頑張って」に近いので文中ではそう訳しました。
「화이팅(ファイティン)」は英語の「Fighting」を韓国語読みしたもので、韓国ドラマにもよく出てくる言葉なので、知っている方も多いと思います。
意味合いは似ていますが、화이팅(ファイティン)よりも힘내(ヒムネ)の方が言い方が丁寧な感じがしたので、ソヌの性格的には힘내(ヒムネ)かなぁ、と思い、作中ではそちらを使用しました。
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